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2010年7月21日 (水)

2010年 6月号 

映画へ詩へ、吹いていくもの。


川上 明日夫


皆さんはどうですか。詩を読むときには、論文みたいに読んだら面白くもおかしくもありません。例えば、立ち聞きするように、垣間見るように、その詩をチョットのぞくように耳そばだててチョット聴いてみるように。映画もそう。
そういう読み方をしてみませんか。理解しなくてもいいんです。感じれば。往々にして人は知識から入りたがる、またそれをどこかでひけらかしたがる心根もみえる。それら学問や知識は、詩を読むときにおおいに妨げになる処があるのではと私などは想ったりもしているのですが、どうでしょう。映画もそう。
だから、「直感が大切」なのです。自分の深層構造に敏感になって率直に読むこと感じることが、震えること、それがとても大切なのであります。言い方をかえれば、映画にもそれを感じるところがありますね。詩人の作品には、シネポエムというジャンルがあります。竹中郁の「ラグビイ」や杉山平一の「映画詩」がそれです。昭和のはじめ頃にエスプリヌ-ボ-などの運動があり、シュ-ルレアリズムの運動があり、モダニズム等々の新しい先鋭な藝術運動が横行しました。その影響でしょうか、シネポエムのそれらも映画と平行して論じられた時期がありました。言葉と映像と音楽のコラボレ-ション。一つの空間のなせるものとして。
「四季」の詩人だった津村信夫の作品に「小扇」というのがあります。これなどはまるで映画の一シ-ンを思わせるようでいまも新鮮です。短い詩ですのでここに紹介してみます。「指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ/高原を走る夏期電車の窓で/貴女は小さな扇をひらいた」という詩です。ここには詩と映画の融合がみられますね。景色、電車、窓、とね。まるで短い三カット。三行で映像と言葉が連動していてイメ-ジが美しい一本の線になる。そしてリズム。別れの手を振るかわりに扇子をひらいた。の象徴的な場面がこころの意識に残ります。国境とは県境でしょうね、流れは千曲川です。舞台は軽井沢です。この詩を読んでいるとどこか遠い外国を思わせるようなイメ-ジの増幅がありますね。詩と映像の力の融和。創造力を、想像力を限りなく豊に醸してきますね。増幅させます。良い詩はまた見晴らしのいい風景をもっているものです。景色を浮べさせるものです。いい映画には常に一編の詩があるように。
映画館の暗闇で、隣の人が何とも思わないだろう場面に、ひとつのシ-ンに、凄く感動したりすることがありませんか。ひとり、笑ったり泣いたり怒ったり、それを押さえ次にくるシ-ンの予感と予測に震えたり、それぞれ価値観が違うわけですから感動する箇所も質も違うわけですが、そういう経験があるでしょう。これなどは、映画のカメラの映像だけではなく、映像が展開する私たちの内的な深層構造から湧いてくるものなのであります。映画の手法にスロ-モ-ションとかカットバックとかフェイドアウトとかいろいろな手法がありますが。詩の表現技術にもモンタ-ジュやこれに似た多様な手法や、方法論があります。修辞法(レトリック)があります。これらの手法について「機械のあみだした手法ではなく本質的に極めて人間的な暖かいもの」であり、また映像の記録は「現実を精神が如何に解読するかと言う精神の軌跡である」とは詩人の杉山平一が映画を論じた言葉ですが、どこか生身の温かさがありますね。
ここでもう一編詩を。これもシネポエムの一編。杉山平一の「闇」を紹介します。「ル-ムライトを消す/スタンドランプを消す/そうして/悲しみに灯りをいれる。」解説するまでもありません。読んで直ぐ景色が浮かぶでしょう。疲れきって部屋に帰ってくる。一日の終わり、部屋の明かりは一日の人生という名の灯り、そうして時間も傍らにそっと佇む、その時間も一日の終わり。一日の持つあらゆる喧騒からの自己開放、良いことも嫌なことも喜びも怒りもそれら一切を背負い、生きとし生けるものの人間の悲しみに、灯りをいれる、いい得てますね。悲しみにどんな灯りが入るのでしょう。どんな色でしょう。感情と肉体と精神。言葉の一体感、このどでん返しの比喩と表現の身体言語。詩とは「人間の自然への呼びかけと、この自然の人間への語りかけ」の関係に他なりません、と言わせるものは杉山さんの詩は、映像ががはっきりしていて、映像を表にだすことで詩が言葉でできている。一級品のシネポエムであるからです。日本的な「四季派」詩人の美学。日本で最初の映画のシナリオ学校を作ったのもじつはこの人である。そしてこれ等の詩には深い「間」が潜んでおります。
さて、詩を読むときも映画を観るときにもこの「チョット」した覗き見のような精神がいまとても必要なのではないでしょうか。理屈や理論、それが即、正しい答えであるというふうな回路、答えを出さなければならないという脅迫観念のそこのところに人間は何かとんでもない大切なものを忘れてきてしまっているように思えてしようがありません。答えがなくてもいいじゃないか。そんなこんなのこの頃ですが。皆さんはいかがですか。「理解」という一文字に、「解かる、解からない」の間に深くて暗い河を感じますが。文学も音楽も美術も、藝術全般、みんな永遠をもとめようとするそこから抜け出せずにいるようなこの頃のこと。求めなくてもいい永遠があっていい。
無理して解からなくてもいいじゃないか。チョットへ開放して。映画へ開放して。
北野武監督作品「アウトレイジ」を観た。特殊な映画の特殊な世界、異空間がそこにがあった。

コメント

レーゼシナリオの一種であろうシネポエムに興味があります。
竹中や北川冬彦にも。

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