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2013年12月18日 (水)

新・身も心も79『かぐや姫の物語』

高畑勲監督『かぐや姫の物語』は大変な力作・意欲作であり、アニメーション映画に新たな地平を切り開いた傑作と言える。しかし、作品が内包しているものが余りに大きく且つ深いゆえ、きちんとした形での批評は、(少なくとも現時点においては)筆者の手に到底余る。よって此処では映画の開巻から順を追い、印象的だった場面を振り返ってみたい。

 

 竹から生まれた赤ん坊は媼の手に抱かれると初めて産声を上げ、人間ではあり得ない桁外れの生命力が周囲の人間にも感化を及ぼすのか、貰い乳をしようとしていた媼は突然お乳が出るようになる。この開巻のシークェンスは奥行きの無いフラットな構図で、デッサンのように余白がふんだんにあり、画調も水彩画的に淡く端正である。本作の基調となる画調・トーンがこの時点で観客に提示され、これ以降の映像展開を予告する。

 春――花が咲きほころび、野山は鮮やかに色づく。それと呼応し、自然の息吹を自らの成長エネルギーとして取り込むかのように赤子もすくすくと育つ。あれよあれよという間に大きく育つことから、近隣の子たちからは「たけのこ」という綽名をつけられる。

子ども達と一緒に遊ぶ時、皆が口ずさむ “まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ” という「わらべ歌」を、たけのこは自然と口ずさんでいる。知っている筈のない(聞き覚えの無い)歌を、何故彼女は唄えるのだろうか?後の展開に繋がる重要な鍵が、此処でさりげなく提示されている。

 ふとした偶然でキジやキノコを大量に手にいれ、今夜はキジ鍋だと喜びいさんで帰るたけのこだが、翁と媼は旅支度をしており、二人と共に都へと旅立つことになる。皆に別れも告げず、キノコの入った籠をそのままにして――。

 

――フェイドアウト――

 

たけのこが目覚めると、牛車の中。

 住居として新築された立派なお屋敷の中を、元気一杯に走りまわるたけのこ。勢いよく廊下の木を踏む音が、屈託の無い彼女の笑い声と一緒になって心地良く響く。

彼女は相模から様々なお習いごとを教授される。しかし、大人しく手習いのお稽古をしているかと思いきや、彼女が書いていたのは「鳥獣戯画」を彷彿させる兎など生き物たちの絵。

 「屋敷」あるいは「稽古事」といった人工物に取り囲まれても、根っからの自然児たけのこは天衣無縫に振る舞う。その象徴が「笑い声」。映像に合せて声をつけるアフレコではなく、役者が直接――映像を介さずに――聞き手(観客)に声を届かせることで、演劇的ドラマトゥルギーがぐっと強くなっている。プレレコを導入した方法論は見事な成果を生み出し、あたかも生の舞台に接しているかのように声優の発する声が――とりわけヒロイン役の朝倉あき――ダイレクトに芝居の息遣いを伝えてくれる。

 

姫のお披露目をすべく、盛大に催される成人儀礼の裳着の祝宴。

 されど、お披露目といっても自分などまるで存在しないかのように、姫は御簾の奥にただじっとしているだけ。下世話な好奇心丸出しの男たちの話声を御簾のうちで聞くともなく聞いているうち、式が勝手に進んでいくことへの矛盾と愚劣さに彼女の憤怒は遂に爆発し、やおら屋敷から駈け出して行く。走って走って走り抜いて、懐かしい山里へと疾走する。予告編にも使われたこのシークェンスは凄まじい迫力で、この場面だけをもってしても、本作はアニメ映画史上に残る作品である(余談だが、筆者はこの場面から、1985年第1回広島国際アニメーションフェスティバル受賞作「風 一分四十秒」を思い出した)。

しかし自分の生まれ育った家には他人が住み、捨丸の住んでいた集落も今は無い。かつてあれだけ生気に満ちた山里は灰色の景色に変わっており、降り出した雪の上に倒れこんでしまう。意識が遠のく中、姫は「この景色、知っている」と呟く。

 かぐや姫が目覚めると元のお屋敷の中。いわゆる夢オチなのだが、ファンタジーをファンタジーとして閉鎖的に完結することに批判的スタンスをとり、物語をあくまで現実に還そうとするリアリスト高畑勲の姿勢が如実に顕れている。

 

かぐや姫の絶世の美女振りを聞きつけ、五人の求婚者が現れる。ここから、表情・仕草も含めコミック・リリーフ的展開。

 物見遊山の野次馬が群がっているせいで、姫は屋敷から出るに出られない。窮屈さにホトホト嫌気がさし、媼と女童を連れてこっそり外にお花見へと出かける。丘の上で咲き誇る満開の桜に狂喜乱舞する姫。姫の歓喜の念に波長を合せるかのように、カメラは彼女の周りをぐるぐると回り、姫の笑い顔をクロースアップする。この桜木の美しさは、日本の伝統美の精髄そのものであり、アニメという手法で現代的に蘇らせている。本作中、最も印象に残る場面の一つ。

 しかしかぐや姫は、一人の子供を見かけると、ふっと我に帰る。もうたけのこの頃の、無垢で無邪気な自分には戻れないことを悟ったのか?急に真顔になって帰路につくが、途中、盗みを働いて逃げている捨丸に出会う。牛車の中の姫に気付いた捨丸は呆然と立ちすくみ、取り押さえられてしまう。かぐや姫は為す術も無く、捨丸に救いの手を差し出すことも出来ぬまま去っていく。

 

――フェイドアウト――

 

 それから三年の月日が流れる。

 姫に求婚した五人の貴公子の顛末――車持の皇子が持参した蓬莱の玉の枝は、贋作。阿部の右大臣は火鼠の皮衣を持ってくるが、火にくべられるとあっさりと燃えてしまう。龍の顎の珠を獲りに赴いた大伴の大納言は、龍に返り討ちにあう。石作の皇子は言葉巧みに姫の心を動かそうとするが、北の方が内情を暴露。石上の中納言は事故死。皆が不幸になったのは私のせいと、かぐや姫は自暴自棄になる。

遂には帝が求婚してきて、有頂天になる翁と媼。なかなか首を縦に振らない姫に業を煮やし、自ら屋敷に出向いた帝は姫を背後から抱きすくめるが、一瞬姫は姿を消す(この時、姫は月に向かって救いを求めていたことが後で明らかになる)。

故郷の山を訪れた姫は、山が再生した頃を見計らって戻ってきた捨丸たちと再会する。かつて山里に暮らしていた頃のような屈託のない笑顔が姫にも戻り、姫は太陽に「あめつちよ、わたしを受け入れたまえ」と呼びかけ、その広げた手のまま捨丸を抱きしめて、二人は空を自在に飛翔する。

最初観た時、筆者は此処で一瞬虚を突かれた。よもや高畑勲作品で、宮崎駿ばりのファンタジー場面に遭遇することになるとは予想だにしなかったからだ。宮崎駿のそれが、ヒコーキの滑走に見られるような爽快感溢れる冒険の象徴であるのに対し、この飛翔場面が表現しているものは、生きている実感・手応えを全身で受け取る精神の開放感である。現世で遂に果たし得なかった夢、生きとし生けるものと一体化し、何物にも束縛されず生を思う存分謳歌するという姫の願望が遂に叶い、その歓喜の念が此処で爆発する。

ここは、姫の笑顔が見られ、笑い声が聞かれる最後の場面である。であるが故に、このシークェンスは、高揚した姫の思いを観客に鮮烈に伝える本篇のクライマックスにする必然性があった。この場面が無いと姫は余りにも哀れであり、例え夢オチ的に処理されているにせよ、必要不可欠であると高畑監督は確信していたに違いない。

 

物語もいよいよ大詰め。

月からの使者が訪れる。この場面は雲中供養菩薩像をモチーフにした来迎図だそうだが、「彼ら」は人間の俗世的悩み・苦しみ・悲しみとは無縁の存在だから、カリプソ風の賑やかでノーテンキな音楽と共に登場しても不思議ではない。

姫の告白。「姫の犯した罪と罰」が――暗示的ではあるが――遂に明らかにされるが、筆者は高畑監督の解釈を完全に理解した自信が無いので、あくまで私的感想を述べさせていただく。

極楽浄土というのは、安寧に満ちた究極の平穏な世界である。清澄で不純なものが一切存在しない月の住人からすると、地球はドロドロした欲望やエゴといった罪と穢れに満ちた汚濁の世界と映るに違いない。しかし、例え人間世界(=地球)が悲しみと苦しみに満ちた世界であるとしても、それを全て含めた上でなおかつ「生」――生きとし生けるものの世界――を肯定的に受け止めようとすることが姫の真摯な思いであり、本作の主題であると筆者は解釈する。

かぐや姫は月に戻されてしまった。されど、姫が「わらべ歌」を媒介として地球の存在を知ったように、姫が今後月で歌うであろう「わらべ歌」を耳にして地球に流されることは、必ず繰り返される筈である。一つの生が失われても、それを受け継ぐ生が必ず出現する “Circle of Life” というテーマに、筆者は痺れるような啓示を感じ取った。「9.11」を体験した我々にとって、この映画は現世を肯定するepiphanyとして筆者には映ったのである。

 

姫は使者たちと共に、ぐんぐん月へ昇っていく。青い地球を振り返る姫の目に光る涙。

 

主題歌「いのちの記憶」が流れる中、エンディング・クレジット。

稲葉芳明

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