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2014年11月21日 (金)

新・身も心も 88 『ジャージー・ボーイズ』とイーストウッド

稲葉芳明

「クリント・イーストウッド監督・製作の『ジャージー・ボーイズ』の試写を観せていただき、ぶっ飛んだ。正直なところ、イーストウッドがアクション、ロマンス、伝記ものなどは撮れるとしても、まさか〈ミュージカル〉をオーソドックスに撮れるとは思わなかったのである」――こう絶賛するのは、作家の小林信彦氏です(『週刊文春』連載コラム「本音を申せば」第809回)。

1951年、ニュー・ジャージー州、イタリア系移民が集まる貧しい町ベルヴィル。ここで理容見習いをしているフランキー(ジョン・ロイド・ヤング)は、その驚異的歌声で知る人ぞ知る存在。トミー(ビンセント・ピアッツァ)とニック(マイケル・ロメンダ)が組んでいるバンドに入ったもののなかなか芽が出なかったが、新メンバーにボブ(エリック・バーゲン)を迎えてからはグループにも幸運の女神が微笑みかけ・・・。

60年代米国音楽シーンを席巻したFrankie Valli and the Four Seasonsを主役とした実録サクセスストーリー+メンバー四人の絆と別れ+マフィアとの繋がりを含めた音楽業界裏話に、ミュージカル的楽しさとダイナミズムをたっぷり盛り込んだ、実に緻密に組み立てられたドラマです。フランキー・ヴァリを始め、先日死去したボブ・クルー(The Four Seasonsの作詞を手掛けた名プロデューサー)等1960~70年代米国音楽シーンに知識と馴染がある人ほど、より奥深く堪能できると思います。全篇息もつかせぬ見事な作劇術ですが、歌われる楽曲を少しだけ御紹介しましょう。

ボブが15分で一気に書き上げ、人気TV番組「アメリカン・バンドスタンド」で披露すると一大センセーションを巻き起こした“Sherry”。次いで“Big Girls Don’t Cry”(62年)、“Walk Like a Man”(63年)と、三作連続で全米ナンバーワンヒットを放つ場面は、本編のハイライトの一つ。その後「エド・サリヴァン・ショー」でライヴ演奏する “Working My Way Back to You”(66年9位)を含め、映画中盤はヒット曲のオンパレードです。

映画も後半になると、グループが空中分解したりフランキーの家族に不幸があったりと、重く暗い展開になるのですが、その暗雲を一気に吹き払うかのように、あの超名曲“Can’t Take My Eyes Off You”(67年2位)をフランキーが熱唱する場面は、もう感動の嵐。1990年の再結成場面で歌われる“Rag Doll”(64年1位)と“Who Loves You”(75年3位)では、イーストウッドが操る夢のような映画魔術に恍惚とさせられます。さらにさらに、カーテンコールまで用意してあるんです。エンド・クレジットが始まると、まずアカペラ・ヴァージョン“Sherry”が唄われ、そこから一気に“December, 1963 (Oh, What a Night)”(75年1位)へと繋げていくシークェンスには、感涙に咽びながら完全に昇天してしまいました。

 

 映画を観ている間も見終えた後も、実に幸福な時を過ごすことが出来ましたが、ここでふと、クリント・イーストウッド御大に改めて思いを馳せてみたくなりました。ぼくが初めて映画館で観たイーストウッド作品は『ダーティハリー2』(1973年)だったと思いますが、正直70年代の頃は、監督イーストウッドにはさほど強い興味関心を抱いていませんでした。遅まきながら監督としての優れた才能に気付いたのは、『ブロンコ・ビリー』を観た時。日本では気の毒な位不入りだったこの映画、カウボーイとしての矜持と誇りを、詩情豊かに歌い上げた秀作でした。

 40年以上にわたって彼の映画に接してきて、自分にとってイーストウッド映画の魅力って何だろうと自問自答してみて、一言で答えれば〈男気〉となりますかね。溝口健二がジョン・フォードを評して言ったかの有名な言葉を借りれば、「男騒ぎのうまい人」なんです。

 孤高の道を歩むことを――ことさら虚勢を張って強がったり、あるいは怨念を抱くこともなく――己の運命と虚心坦懐に受け入れ、しかし、矜持と誇りは決して忘れることなく悠然と歩みを進める姿に、男のダンディズム・格好良さを感じて惚れこんでしまうのです。演出について言えば、これみよがしのテクニックや派手なカメラワークには目もくれず、登場人物たちが醸成する人生ドラマをじっくりと掘り下げる視点の確かさに、ほとんど畏怖の念すら覚えます(イーストウッドは、映画製作に最も重要なのが脚本、次がキャスティングと述べていますが、成程と納得させられます)。

 マカロニ・ウェスタンの代表作『荒野の用心棒』に主演したのが1964年、自身の製作会社マルパソ・プロダクションを立ち上げたのが1967年、『恐怖のメロディ』で監督デビューを果たしたのが1971年。半世紀に亘り、監督業と役者業の二足の草鞋を履いて生み出してきた名作・傑作の数々から私的ベストテンを選んでみますと、以下のようになります。

『ダーティハリー』(Dirty Harry 1971年、主演)

『ブロンコ・ビリー』(Bronco Billy 1980年、監督・主演)

『バード』(Bird 1988年、監督・製作)

『許されざる者』(Unforgiven 1992年、監督・製作・主演)

『ミスティック・リバー』(Mystic River 2002年、監督・製作)

『ミリオンダラー・ベイビー』(Million Dollar Baby 2004年、監督・製作・主演)

『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers 2006年、監督・製作)

『硫黄島からの手紙』(Letters from Iwo Jima 2006年、監督・製作)

『グラン・トリノ』(Gran Torino 2008年、監督・製作・主演)

『ジャージー・ボーイズ』(Jersey Boys 2014年、監督・製作)

次点『恐怖のメロディ』(Play Misty for Me 1971年、監督・主演)

『人生の特等席』(Trouble with the Curve 2012年、製作・主演)

 

 どんな大監督であっても、70歳の声を聞く頃になると次第に枯れてきて、「老い」を感じさせる例が多い中で、老年の域にかかってから『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』『グラン・トリノ』と傑作を連打する創り続ける仕事ぶりは、超人的というか怪物的ですね。これからも、タフで頑固な〈親父〉として、ますます意気軒昂として映画を作り続けて下さい!

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2014年9月24日 (水)

新・身も心も 87 『イーダ』とモーツァルト

稲葉芳明

ポーランド映画『イーダ』(Ida, 2013)は小品ながら静謐な美しさを湛え、惻々として胸に迫ってくる秀作である。

1962年、社会主義時代のポーランド。
イーダ(アガタ・チュシェブホスカ)は戦争孤児として修道院で育てられる。修道女になる日が迫ってきたある日、院長から、音信不通だった叔母ヴァンダ(アガタ・クレシャ)が戦争を生き延びて暮らしていると知らされる。イーダが会いに行くと、判事を務める叔母は酒と行きずりの情事に溺れる日々を過ごしていた。
二人は、イーダの両親が殺された事情を詳らかにすべく、叔母の車で遠く離れた寒村まで赴く。そこで二人は、イーダの両親のみならず叔母の幼い息子までもが惨殺された過去を知ることになる・・・。

パヴェウ・パヴリコフスキ監督は1957年ワルシャワ生まれだそうだが、本作は、1950~60年代に世界を席巻した “ポーランド派” 映画にオマージュを捧げつつ撮ったと思しき作風である。ぼくは二十代の頃、アンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』(1958年)、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督『夜行列車』(1959年)、ロマン・ポランスキー監督『水の中のナイフ』(1962年)といった “ポーランド派” の傑作にリバイバルで接しているが、これらの作品群と相通じるものを『イーダ』にも感じ取った。その共通項とはうら寂しい風景であり、切ない孤独感であり、そして何ともやるせない人生の辛さである。
モノクロ・スタンダード(1:1,33)という二世代前の古典的フォーマット、ストイックで虚飾を排した画面構図、断片的モンタージュ、ミニマリズム的プロットによって、第二次大戦中にポーランドが被った悲劇と加害者としての罪を、淡々とした筆致で掘り起こしていく。そのアプローチは、声高に相手を糾弾するデマゴーク的姿勢の対極にあり、寡黙で誠実な姿勢を貫いているが故に観客の胸により深く迫ってくる。

旅の途中、イーダはホテルで一人のサックス奏者と出会う。彼は徴兵を逃れ、ジャズをこよなく愛している。社会主義の教条からすれば、ジャズは唾棄すべき堕落した頽廃的音楽ということになるが、イーダはジャズとこの若者にふっと心惹かれ、これが契機となってイーダの生と性に「目覚め」が生じる。
映画では、二つの音楽が印象的に挿入されている。一つはモーツァルト:交響曲第41番《ジュピター》、もう一つはジョン・コルトレーン「ネイマ」(John Coltrane Naima:コルトレーンが1960年に発表したアルバム “Giant Steps” に収録されたジャズ・バラードの名曲)――好対照のこの二曲が、映画では重要なモチーフとなる。全くの私的見解だが、《ジュピター》は叔母が属してきた旧世界および審美観を、「ネイマ」は西側の自由と精神の解放を象徴しているのではないか、という感じがした。さらに《ジュピター》は、『イーダ』終盤の或る重要な場面で流れるのだが、モーツァルトならではの典雅な響きと事件の衝撃との落差の大きさが、極めてショッキングであった。

とここで、《ジュピター》にインスパイアされ、モーツァルトの楽曲が流れた映画をあれこれ思い起こしてみた。
アニエス・ヴァルダ監督『幸福』(Le Bonher, 1965)は、絵に描いたような幸福な家庭の奥に潜む残酷なエゴイズムを描いた傑作だったが、美しい映像と『クラリネット五重奏曲』が怖いほど合っていた。
モーツァルトというと明るい曲調のものが多いが、ルキノ・ヴィスコンティ監督『家族の肖像』(Conversation Piece, 1974)で流れた『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』第2楽章の深く哀切な響きは、バート・ランカスター演ずる老教授の心境を象徴しているようだった。
モーツァルトの数多い作品の中で、天上のような美しさで一、二を争うのが『クラリネット協奏曲』。その第2楽章が流れた映画が、シドニー・ポラック監督『愛と哀しみの果て』(Out of Africa, 1985)で、アフリカの広大な大地とモーツァルトが不思議とよく似合った。
オペラも紹介しておこう。フランク・ダラボン監督『ショーシャンクの空に』(The Shawshank Redemption, 1994)で、囚人ティム・ロビンスが管理棟から所内に流した曲は、歌劇『フィガロの結婚』第3幕「手紙の二重唱」。皆一様に恍惚の表情を浮かべてこのアリアに聞き入る情景は、映画史上に残る名場面だった。
最後は、ミロシュ・フォアマン監督『アマデウス』(Amadeus, 1984)。モーツァルトが準主役なのだから、モーツァルトの楽曲が流れるのは当たり前なのだが、その殆どは演奏場面で聞こえてくる。その例外の一つが『交響曲第25番』第1楽章で、サリエリが自殺未遂をする冒頭でオープニング・クレジットと共に導入され、観客に鮮烈な印象を与えた。

では最後にクイズを一つ。
映画開巻、“What can you say about a 25-year-old girl who died? That she was beautiful and brilliant? That she loved Mozart and Bach? The Beatles? And me?”という主人公が独白する作品は何か?

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――答え、アーサー・ヒラー監督、ライアン・オニール主演『ある愛の詩』(Love Story, 1970)。

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2014年7月31日 (木)

スパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女』(米、2013年)

稲葉芳明

近未来のロサンゼルス。

セオドア(ホアキン・フェニックス)は、顧客の依頼で家族や恋人へ親愛の手紙をしたためる“代筆ライター”。感性が豊かで繊細な彼は、社内ではその文才を存分に生かした仕事ぶりで一目おかれているが、実生活では幼馴染の妻キャサリン(ルーニー・マーラ)と離婚調停が進んでいる。同じマンションに暮らす友人エイミー(エイミー・アダムス)は、デートの相手を紹介しようとするものの、彼は妻への未練が断ち切れず悶々と日々を過ごしている。

そんなある日、“It's not just an operating system, it's a consciousness.”(これはただのオペレーティング・システムではない。意識をもつOSだ)という宣伝文句に惹かれ、セオドアは最新式人工知能 “OS1” を購入する。幾つかの質問に答え、最適化されたOSが起動すると、画面から聞こえてきたのは自らサマンサと名乗る人工合成の「声」。

サマンサ(スカーレット・ヨハンソン)は有能な秘書ぶりを発揮し、メールの整理など朝飯前。原稿の構成も手際よく行って、本を編集して出版社に売り込むほどの手際の良さ。仕事面だけではなく、セオドアの愚痴にも優しく耳を傾け、キャサリン不在の空白を埋める存在に。いつしかセオドアは、サマンサなしでは夜も日も明けぬようになり、遂に二人は相思相愛の仲となるのだが――。

 通常なら、これは一風変わった恋愛映画か都会型喜劇のプロットとなるところだろう。あるいは、現実の人間と接するのが苦手で、ヴァーチャル・リアリティにしか生きがいを見出せない「ネト充」人間を辛辣に風刺する社会戯画に仕上げるアプローチも有りか。ところがこの映画、そんな皮相なレベルを突き抜けた傑作に昇華した。何故か?

 一つの理由は、スパイク・ジョーンズ監督自ら手がけた脚本の、斬新な発想と完成度の高さ。セオドアは、依頼主に代わって親書を手掛ける時は情感溢れる名文を綴り、手紙という形で相手と心のこもった交流をすることが出来る。しかし実生活においては、奥さんと上手く意思疎通を図ることが出来ない。多くの市民が耳にはめ込んだ超小型コンピューターとひたすら会話する現代社会において、主人公はOS相手なら自然に接し、時には内面を赤裸々に曝け出し、時にはそこに安らぎを見出す。これらのエピソードが複合的に重ね合わせられ、現代(近未来)における「コミュニケーション」の意義と方法論を思索していくプロセスが実に見事である(実のところ筆者には、サマンサの「声」が、かの『2001年宇宙の旅』のスーパー・コンピューターHAL 9000と次第に重なっていった)。でも、過度に生真面目に、深刻になり過ぎることもない。無駄の無い展開と磨き上げられた台詞によって、ウディ・アレン映画を幾分オフビート気味にしたような、ライトでマイルドで知的な雰囲気を醸し出す手法が鮮やかである。

 二つ目の理由は、主役のホアキン・フェニックスとスカーレット・ヨハンソンの名コンビぶり。ヨハンソンは「声」のみの登場、しかも所詮人口合成音に過ぎないのに、ちょっとハスキーがかった声で主人公を優しく慰撫したり励ましたり、甘い声で笑ってみたり、時にはツンと拗ねてみせたり、その声自体が艶っぽくてすこぶる魅力的で、台詞回しの巧みさはもう絶品。これはもう、セオドアのみならず大抵の男性顧客は一目惚れ、もとい、一「声」惚れするだろうし、こんなOSが売り出された節には筆者は即「買い」である(笑)。

ホアキン・フェニックスはサマンサ相手に自然な「受け」の演技に徹していて、図らずも人工知能と恋に落ちる男性を、奇異と感じさせない存在感を示している。この二人の相性は抜群で(There’s good chemistry between them.)、その極めつけは二人の「ラヴシーン」!これは映画史上初とも言えるユニークな展開で、筆者は驚きを通り越して最後には感動した。

三つ目の理由は演出のセンス。明るい色彩を活かしたポップな画調で、近未来の都会を身近なものにすんなり納得させる映像造形力に加え、音楽の使い方の抜群のセンス(Arcade FireやKaren O)にも唸らされた。

 

セオドアとサマンサの恋の行方は、此処では記さないでおこう。

『2001年宇宙の旅』に登場したStar Childではないが、人類の叡智を易々と超える人工知能と我々人間は、今後どう向き合うのか、付き合っていけるのかと云う深遠で哲学的主題がさりげなく提示され、複雑で不思議な余韻を残すことは間違いない。あとは、個々の観客に解釈が任されていると言えよう。

筆者は、形而上学的コミュニケーションというか、人間と人工知能(非人間的存在)との「究極の恋」の顛末に深遠かつ現代的なテーマを見出すと共に、人が人と接し愛することの素晴らしさと美しさを、再認識させられた。

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2014年7月 6日 (日)

新・身も心も 85 『天使にラブ・ソングを』(Sister Act, 1992)

 この一ヶ月で、芝居を四本観ました。観劇順に記しますと、劇団☆新感線『いのうえ歌舞伎《蒼の乱》』(梅田芸術劇場メインホール 5月17日夜の部)、『シスター・アクト~天使にラブ・ソングを~』(帝国劇場 6月7日昼の部)、コクーン歌舞伎第十四弾『三人吉三』(シアターコクーン 6月7日夜の部)、青山円劇カウンシルファイナル『赤鬼』(青山円形劇場 6月8日昼の部)――です。

いずれも、「芝居」ならではの自由な表現技法と想像力・創造力およびlive performanceならではの臨場感・スリルを存分に味わわせてくれる素晴らしい舞台ばかりでしたが、この四本の中では最も映画との繋がりが強い『シスター・アクト』を、今月は御紹介しましょう。

ウーピー・ゴールドバーグ主演で、世界的に大ヒットした映画『天使にラブ・ソングを…』(Sister Act, 1992)。これを舞台化(ミュージカル化)するに際しては、ゴールドバーグ自ら共同制作者として企画に深く関わり、2009年にロンドンでワールド・プレミア。2011年にはブロードウェイで幕を開けて大ヒット、トニー賞5部門ノミネートの成功を収めました。

元(原作)となった映画は日本でも大変好評を博し、この映画が契機となって「ゴスペル」という言葉と音楽が人口に膾炙するに至りましたので、待望の日本公演が実現したと言えるでしょう。

 

まずは、映画の物語のおさらいです。

――ネヴァダ州リノのカジノで歌うクラブ・シンガー、デロリス=ヴァン・カルティエ(ウーピー・ゴールドバーグ)は、一帯を仕切る顔役で自分の愛人でもあるヴィンス(ハーヴェイ・カイテル)が、組織の裏切り者を殺す現場を偶然目撃。慌てふためいて警察へ駆け込んだデロリスを、サザー警部(ビル・ナン)はサンフランシスコの修道院に匿うことにします。新米尼僧シスター・クラレンスとして修道院に迎えられたデロリスは、厳格な修道院長(マギー・スミス)の高圧的態度にも何ら臆することなく、シスター・パトリック(キャシー・ナジミー)やシスター・ロバーツ(ウェンディ・マッケナ)ら若い尼僧たちとすぐに打ち解け、ラザラス尼(メアリー・ウィックス)から聖歌隊のリーダーを引き継ぎます。歌のレパートリーにソウルやロックのナンバーを加えると、聖歌隊は以前とは見違えるほど生き生きしたコーラス隊に変貌し、周囲が驚くほどの実力と人気を博していきます――。

舞台版の物語もほぼこれを踏襲しています(ミュージカル版は舞台がリノからフィラデルフィアに変更になっていますが、実はこれがミソ)。では、映画版と舞台版の最大の違いは何か?

それは、映画版が既存曲を挿入していたのに対し、ミュージカル版はアラン・メンケン&グレン・スレイター(舞台版『リトル・マーメイド』を手掛けた名コンビ)が、全曲新たに書き下ろしていることです。白人のアラン・メンケンが、1977年のフィラデルフィアを舞台にしたソウル・ミュージックのノリと、伝統的ミュージカルのハーモニーや旋律を巧みに融合しているところが、音楽ファンにはたまらない大きな聴きどころなのです。

 筆者が観た日はデロリス=瀬名じゅんでしたが、蓮っ葉な感じは余り無く、スター然とした華やかさが自ずと発露します。ただオリジナル・ロンドン・キャストのPatina Millerと比較すると、やはり声が細く感じられてしまいますが、まあこれはないものねだりというものでしょう。脇役で一番光っていたのは鳳蘭。修道院長が唄うナンバーはしっとりと歌い上げる楽曲が殆どですが、しみじみとした情感を感じさせ、「歌」で「物語」を深く語る力はさすがと深く感服致しました。また、デロリスと幼馴染である警官エディを演ずる石井一孝は、一途な純真さを嫌みなく感じさせ好感が持てます。あとシスター役の春風ひとみと浦嶋りんこは、歌も演技も踊りも安心して見ていられます。

でも、やはりこのミュージカルの真の主役は、メンケン&スレイターが書き下ろした楽曲に乗せ、無我夢中で歌い踊るシスター達です。禁欲的な生活を送るシスター達が、デロリスに感化されて別人のように陽気にかつド派手に歌い踊るというのは、不謹慎と言うか、現実には到底有り得ない設定なのですが、音楽の力によって人がどんどん変わっていく――自己の真の姿に目覚めてくる――躍動感が、この見え見えの嘘を観客に信じさせます。テーマソング的に何度も歌われる“Take Me to Heaven”、第2幕冒頭の素晴らしいシークェンス“Sunday Morning Fever”、ずっと内気だったシスター・メアリー・ロバートが、デロリスとの交流で脱皮して新たな道を歩まんとする心境を歌い上げた感動的ナンバー“The Life I Never Led”(ただし、ラフルアー宮澤エマはやや力不足)等々、『リトル・マーメイド』『美女と野獣』に匹敵する多彩で情感に訴える緻密なスコアが、観る者をごく自然に感動させます。

終演後、近くに座っていた女性二人が「演じている人たちが一番楽しいでしょうね」と言葉を交わすのを耳にしました。まあ、ミュージカルに限らず芝居というものは「観るは天国、演ずるは地獄」の世界ではありますが、演じている人たちが皆キラキラ輝き、観客以上に役者達が楽しんでいると納得させるだけの力と爽快感を、このミュージカルが存分に放っていたのは間違いありません。

映画のファンだった方は、必見! (稲葉 芳明)

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2014年5月19日 (月)

新・身も心も 84 “THE 100 MOST INFLUENTIAL PEOPLE”

 

 “TIME”誌恒例の‘THE 100 MOST INFLUENTIAL PEOPLE’が発表されました(2014年5月5日・12日合併号)。

巻頭、Nancy Gibbs編集長が「世界で最も影響力を持つ人々のリストであり、最も強大な力を有する人々のリストではない」と述べていますが、オバマ氏やプーチン氏、あるいはキム・ジョンウン氏が選ばれているのは――肯定否定・好悪のほどはともかく――誰しも納得する顔触れでしょう。されど、かのMiley Cyrus嬢が挙がっているのをみると、「世界で」ではなくて「アメリカで」だろうし、「影響力」には「お騒がせ度」も含まれるのか、と茶々を入れたくなりますよね。

自分は、高邁な理念を持つ政治家・活動家の方々への尊敬の念は惜しまぬものの、俳優や歌手などエンタメ系分野の面子のほうについつい目が行きがちです。私以外にもこのような読者は多々いると思われますので、そこに話を絞って少し雑感を記してみます。

まず歌手で挙がっているのは、Beyoncé, Pharrell Williams, Mike Cyrus, Carrie Underwoodの4人。意外だったのは、今回の「100人」には映画業界人が例年より多く含まれている点で、俳優はBenedict Cumberbatch, Kerry Washington, Amy Adams, Robin Wright, Matthew McConaughey, Yao Chen, Robert Redfordの7人。監督はAlfonso CuarónとSteve McQueen。プロデューサーはMegan Ellinson(『ゼロ・ダーク・サーティ』や『ザ・マスター』の製作者)。演劇関係者では、Diane Paulus(来日公演も行われた『HAIR』や『ピピン』のリヴァイヴァルで絶賛を集めた演出家)とRobert Lopez and Kristen Anderson-Lopez(ヒット・ミュージカル“The Book of Mormon”の作詞作曲家コンビ、というより『アナ雪』を手掛けた夫妻!)がリストに名を連ねています。

キュアロン監督やマコノヒー、ロペス夫妻のようにオスカーを獲った今最も旬の人を挙げている一方、長い長いキャリアを誇るレッドフォードも入っていたりと、このバラケぶりが全体として不思議なバランスを保っているように映るのが、いつもながら‘The TIME 100’の特徴。

そしてそれ以上にウリなのが、「100人」を紹介する一文を誰が執筆しているかということ。例えばオバマ大統領がローマ教皇に、U2のボノがナイジェリアの経済学者ンゴジ・オコンジョ・イウェアラに賛辞を呈しているというのは、さすがTIMEならではの豪華な組み合わせ。中でも、「女性指導者が増えれば世界はさらによくなるだろうし、ヒラリー・クリントンはその実現に手を貸せる人」(A world with more woman leaders will be a better world, and Hilary Clinton is helping make that possible.)というマララ・ユサフザイ――彼女自身も「100人」に選ばれている――の言葉は、文字通り九死に一生を得ながら冷酷無慈悲なタリバンと闘っている彼女なだけに、大きな説得力があって感銘を受けます。

――自分が25歳の時、二人の素晴らしい俳優と仕事をする機会があった。その時は、二人が夫婦であることも10歳になる息子がいることも知らなかったが、それから30年経ち、少年は「ベネディクト・カンバーバッチ」として今活躍している――こう記すのは、『英国王のスピーチ』でオスカーを受賞したコリン・ファース。まるで上質のエッセイを読むような一篇です。

このように印象に残ったエピソードやフレーズを列挙していけばキリがないのですが、100篇の中から最も印象に残ったものを一つだけ選ぶとすれば、大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインがロバート・レッドフォードのことを綴ったものになるでしょう。ワインスタインは以下のように記しています――「レッドフォード無くしてはサンダンス映画祭はこの世に存在せず、スティーヴン・ソダーバーグ、クエンティン・タランティーノ、ケヴィン・スミス、ディヴィッド・O・ラッセル、ポール・トーマス・アンダーソン等々の第一線の監督達は輩出されなかった。この2013年には、『オール・イズ・ロスト』の素晴らしい演技で世間を再び瞠目させた。ただ、彼には欠点が一つある。それは、この20年の間私は幾度となく昼食を共にしてきたが、彼は一度たりとも勘定をもったことが無いことだ。もし幸運にも、レッドフォードと時間を過ごせる機会を持てたら、俳優と監督・プロデューサーの二足草鞋を履く草分けとなった伝説的人物から、映画製作について有益で素晴らしい話が聞ける。ただし、支払いの心づもりだけはお忘れなく」

来年は、どのような顔触れが居並ぶ100人のリストになるでしょうか。そして誰がその100人を紹介しているでしょうか。年末のBest Books / Music / Movies of the yearと並び、毎年楽しみにしている名企画です。





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