フォトアルバム

映画サークルお勧めの映画

HP内映画検索

アクセスカウンター

  • 一番多いお客様の県は?

    ジオターゲティング

散歩道 Feed

2013年10月23日 (水)

散歩道 ⑯ 心にしんとくるもの

観た。観た。『そして父になる』を観てきた。第六六回カンヌ国際映画祭で、エキュメニカル賞特別表彰を受けたというニュースをテレビで見たときから、公開を楽しみにしていた映画である。

私は、ベスセラー小説は読みたいと思わない方だ。その本を出した出版社の宣伝の匂いが濃いからである。しかし賞をとった映画は観てみたい。特に外国の賞にエコヒイキはないと思うし、日本の映画がどんな評価を得たのか興味があるからだ。

これは「子どもの取り違えという出来事に遭遇した二組の家族を通して愛や絆、家族といったテーマを感動的に描くドラマ」という映画であった。

窓から美しい夜景が見える豪華なマンションに住む、子供と夫婦の三人家族。しかも夫婦は美男美女である。私の若いころ、あれほど全て揃った男性はいなかったなあと、羨望の眼差しで観ていた。いや、いただろうが、つまり私はそういう男性とは無縁の世界に生きていたのだと思うころ、物語は大きく動く。

子供を取り違えたと知った二組の夫婦。四人の男女の苦しみと哀しみがそれぞれの形で描かれていく。「子供の取り違え」ということで、なんとなくストーリーも見えるような気がしていたが、予想は嬉しいほど外れていく。

細部も計算されていて、それが福山雅治演じる野々宮の意識を父親にしていくのである。いや、彼だけでなく四人がそれぞれの親を演じていた。もう一方の冴えない夫とその妻の逞しさ。少々荒っぽく見える神経の中の温かさ。親子の情愛という言葉では到底おさまりきらないものを、四人はたっぷりと見せてくれる。それが私の心にしんと響いてくるのである。

途中で、あんなに演技の上手い子供がいるのだなあとか、野々宮の妻役の尾野真千子はいいものを着ているなあとか、余計なことも考えてはいるのだけど。それでも感動するのである。

ラストもよかった。

ラブストーリーには少々厭き、ホラーもSFも苦手、時代劇もあまり好きではないと、偏った好みの私だけど、映画は楽しみたい。映画に感動すると、まだ感動できるやわらかい心をもっているのだと、自分に感動するオマケがつく。

アメリカの映画製作会社ドリームワークスが『そして父になる』をリメークするという記事を新聞で読んだ。いいことなのだろうが、今は『そして父になる』だけで十分という気分である。

(中島美千代)

2013年6月 3日 (月)

散歩道⑭ カンヌ国際映画祭のニュースは、私にとって書評のようなものであった。

毎年、冬は永いと思う。北海道に比べれば春は早く来る。しかし私は福井に住んでいるのだから、やはり冬は永いと思うのである。
 

冬の間、仕事も生活もしているけれど、気分は冬眠である。ようやく春が来たら、今度は花粉症で、桜も菜の花も愛でることができない。

 その春も終わり、いよいよ活力に満ちた生活ができると思ったときは、
もう五月。一年の半分近くが過ぎているではないか。私は焦ってしまう。
あと半年でまた冬眠の季節が来てしまう。だから、やりたいことがどっと溢れてくるのだ。何から手をつけたらいいかもわからない。まるで雪解けの洪水である。

そんなある日、第66回カンヌ国際映画祭で、『そして父になる』がエキュメニカル賞特別表彰を受けたというニュースをテレビで見たら、何かしら心が躍った。そうだ、私はやりたいこともいっぱいあるが、映画も観たいのである。このニュースは冬眠から覚め、花粉症からも解放された私にとって、読書のきっかけになる書評のようなものだった。

 私は新聞や雑誌の書評欄を読むのを楽しみにしている。書評を参考に本を買うことが多い。書評とは全く違う読み方をするときもあるし、がっかりすることもある。それでも書評は本を読みたいという気持ちにさせてくれるのだ。これは「子どもの取り違えという出来事に遭遇した二組の家族を通して愛や絆、家族といったテーマを感動的に描くドラマ」だそうだ。
 

そういえば、昔は産院で子どもの取り違えがよくあった。テレビや新聞でニュースを見聞きするたび、何と苛酷な運命があるのだろうと思ったものだ。現在ではさすがにないようだが。

 だから「子どもの取り違え」に今頃という気もしないではないし、タイトルからストーリーも想像はつく。でも観てみたい気持ちになった。私は今、アクションものでもなく、ラブストーリーでもなく、感動できる映画が観たい。『そして父になる』に感動できるかどうかはわからない。しかし書評と同じでハズレもアリだからいいではないか。

 冬眠からはっきり目覚めた今、まずは感動する映画が観たいと思うのである。(中島美千代)

2011年9月 5日 (月)

散歩道⑬スターで観る映画   中島美千代

 原田芳雄の死を報じるニュースで、車椅子に乗り、喋ることもできない彼を見た。いきなり昔の恋人の痛々しい姿を見てしまったようだった。
 

若いころから、私にはいつも好きなスターがいた。一度に二、三人いるときもあって、そんなときは映画を観るのに忙しかった。
 

原田芳雄も熱を上げた一人で、若いころの彼のセクシーさに参ったのだ。長い間、写真を飾っていたほどである。

スターも当然ながら老いていく。「父と暮らせば」の原田芳雄を、いい役者だなと思ったものの、セクシーでなくなった彼は、もう昔の恋人だった。題名は忘れたが、倍賞美津子と夫婦役をしている映画を観たときもそうだった。私は勝手なフアンである。

それで私は気がついた。倍賞美津子に色香がなくなっても何ともないのに、セクシーでない原田芳雄は困るのである。倍賞美津子には、もうそんな年になったのねと言えるのに、彼の老いは受け入れがたい。私にとって原田芳雄は憧れであり、偶像であったのだ。

ところで、この映画を観ようと決める理由は何だろう。好きな俳優が出ているから、話題の映画だから、面白そうだからと理由はいろいろあるが、私は好きなスターが出ていると観たくなる。ずっと同じスターのフアンでいる人もいるが、私はスターに関しては気が多いし浮気っぽいのである。

私と何らかの形で関わっている人や、周りにいる大事な人は老いても病んでも愛しい。しかしスターは私の存在を知らないのだから、いつ他のスターのフアンになってもいいと思っている。こんな浮気はまだまだ続きそうである。

数年前、他のスターなら絶対観に行かないけれど、つい行っちゃったというのがあった。やくざ映画「新宿物語」である。原田芳雄の次に、私は村上弘明が好きになっていた。美形で、セクシーで、もともと不良っぽいのが好きな私は、やくざの彼を観に行った。映画は本当につまらないものだった。しかしロングコートを着て颯爽と歩く、やくざの村上弘明は恰好よかった。うっとりと眺めていた。だけど彼はちかごろ、少し目じりが下がってきたようである。そんな訳でこの間は、織田裕二の「アンダルシア女神の報復」を観てきた。

2010年11月29日 (月)

散歩道⑩ ~映画館~

中島美千代

 最近、古い映画や見逃した映画をDVDで観ることが多い。テレビを買い替えたついでに、観るだけしかできないけれどDVDプレイヤーもそろえたからである。これまではDVDを観ることなどほとんどなかったから、珍しいこともあって友達やビデオ屋からたくさん借りてきた。
DVDは手軽でいい。「クレマー・クレイマー」を、熱いコーヒーを飲みながら観た。映画館ではこうはいかないなと思ったりする。映画館で観て感動した「父・帰る」を観ながら、やはりこの映画はいいなと思ってビールを飲む。

 いつだったか、作家の赤川次郎がグラス片手にホームシアターでくつろいでいる映像をみたことがあった。こちらはテレビだけど、気分は同じようなものだと楽しんでいた。
ところが「アルマフィ」を観ているとき、これを映画館で観るといいだろうなあと思ったのがきっかけで、急にDVD熱が冷めた。映画館で観るような迫力がないのもつまらないが、映画が心を掴みにこない。

 やはり、映画は映画館に出かけて観るものだと思った。面倒と思えるこのことが、実は映画の魅力なのだと気がついた。

 私はたいてい昼すぎから始まる映画を一人で観る。映画館を出たあと、ぼんやりと街を歩くのはいいものだ。映画の余韻にひたりながら街並みを眺め、人と行きかう。本屋を覗き、読みたかった本を買う。グラビアがいっぱいの雑誌も買い、コーヒーショップでそれをぱらぱらと見る。映画に続いたこういう時間のなんと贅沢なこと。この贅沢と思う時間を楽しみながら、少しずつ現実に戻っていく。

 だから映画を観に行くと、ほぼ半日を費やしてしまう。ときには期待はずれの映画にがっかりするけれど、それはそれで仕方がない。そういうときはコーヒーにケーキもつけて埋め合わせをする。

 そして思い出した。録画したテレビドラマより、走って帰って観たドラマの方が面白かった。今日は絶対にあの番組を観るのだという小さな楽しみが、一日のいろどりにもなった。
 
DVDで観る映画は、録画したテレビドラマのような気がする。いつでも、何度でも観られる気楽さは、楽しみも感動も薄い。観たい映画は時間をやりくりして、映画館で観てこそおもしろいのだと思う近頃である。

 

 

2010年9月22日 (水)

散歩道⑨ ~名場面を短歌に~

中島美千代

ガラス戸をへだてて口づけおくりくるは亡きひとひたひた夕べせまりて

昭和二十五年の三月、「また逢う日まで」という東宝映画が封切られた。召集令状を受けて出征する青年と、その恋人の痛ましい青春を描いたものであった。当時の映画フアンなら、この歌を読めばすぐに思い出す場面があるだろう。主演は岡田栄次と久我美子である。戦争を経験した若い人の共感を得たらしい。大ヒットである。またこの年の「キネマ旬報」ベストテンの一位に選ばれた。

このガラス越しの接吻場面は、日本映画の歴史の本にたいてい載っていて、今でも見ることができる。目を閉じてくちびるを寄せてくる久我美子の表情は、官能的というより切ないほどに美しい。

この歌の作者中城ふみ子は、昭和二十九年に『乳房喪失』という短歌五十首で、「短歌研究新人賞」を受賞し、いちやく歌壇の寵児となったのだ。この受賞から一年後に乳がんの再発で亡くなってしまうのだが、彼女の歌は今も鮮度を失わない。
昭和二十年代、映画はまさに黄金期を迎える。ふみ子も熱烈な映画フアンであった。恋人だった人を亡くしたふみ子は、その人を偲びながら映画の名場面を重ねたのだろう。まさに映画は夢である。

戦後、恋愛映画が次々と作られ、米国連合軍に接吻場面のある映画も奨励された。日本人が公然と自分の気持ちを表現したり、行動に移すことが日本社会では制限されていたと判断したからだそうだ。それで民主的恋愛映画が奨励されたというのである。
 
民主的恋愛映画がどうのというのは別にして、昭和二十一年五月に「はたちの青春」が公開され、大坂志郎と磯野道子の接吻場面がアップになると、観客は息をのんで見つめたままだったという。最初の接吻場面の上映である。

ふみ子も接吻場面に衝撃を受けたひとりだったのだろう。「背のびして唇づけ返す春の夜のこころはあわれみづみづとして」と、くちづけの歌を詠むようになる。
 
戦後、恋愛映画が人々の心を捉えていく中で、ふみ子の短歌の世界も変えたようだ。ふみ子はまた別の映画の接吻場面をこんなふうにも詠んでいる。

光たる唾ひきしキスをいつしんに待ちゐる今朝のわれは幼し